昨年83歳で亡くなられた元日本弁護士連合会会長の中坊公平
(なかぼう・こうへい)さんの約10年前のインタビュー記事です。
哀悼の意を込めて、紹介させていただきます。
今から30年近くも前のこと、私は森永ヒ素ミルク中毒事件の弁護団長をやっていました。昭和30年の初め、市販されている粉ミルクにヒ素が混入していて、それを飲んだ一万数千人の赤ん坊が中毒になった。そして百三十人以上の尊い命が奪われたという事件です。
損害賠償問題のなか、私は被害者のお宅を訪ね歩きました。
そのなかで会った健雄君のお母さん。あのときのことは忘れることが
できません。
とても元気な赤ん坊として生まれてきた健雄君。しかしヒ素ミルクを
飲んだために、17歳でこの世を去ることになってしまいます。
小さいころからてんかんの発作が激しく、知能の発達も遅れていった。
抗てんかん剤の副作用で歯はボロボロになり、亡くなるときには
すべての歯が抜け落ちていたそうです。
大阪にある健雄君の家。二間ほどしかない質素な家。
タンスの上には健雄君の小さなころの写真が飾られていました。
ほんとうに可愛らしい顔で微笑んでいる。亡くなる間際のやせ細った顔とはまるで別人のようでした。
「お母さん。17年間つらかったでしょうね。何が一番つらかったですか」
私は不用意にも、ふとそんな質問を投げかけてしまった。
「健雄は生涯で、三つの言葉しか話すことができませんでした」
それまでうつむいていたお母さんが、急に訴えるように話しだした
のです。
「私は“おかあ”と“まんま”という言葉を必死になって教えました。
意思表示のできない健雄にとって、生きていくために必要な言葉だと思ったからです。そしてもう一つ健雄が覚えた言葉。
それは“あほう”です。私が健雄の前で決して使わなかった言葉です。
私がいない所で言われ続けた言葉。私は“あほう”という言葉を健雄に覚えさせた世間が憎い。世間の冷たさこそがつらかった」
私はまさに、胸が締めつけられるような思いがしました。
健雄君は外で遊ぶのが大好きでした。迷子にならないように、住所と名前と電話番号を書いた札を首からぶら下げ、すぐに外へ飛び出していったそうです。近所の大人たちから避けられても、子供に水を掛けられても、いつもニコニコと笑っていました。
「みんな、健雄はあほうだから、泣くことも知らないと思ってました。
あの子は人前では決して涙を見せなかった。でも家に帰ってくると、
私の腕にしがみついて泣くんです。健雄はいじめられていることも、
泣くことも知っていたんです」
健雄君とお母さんにとって、生きてきた思い出とは何なのでしょう。
健雄君は何を思いながら死んでいったのか。
もしひどい言葉を繰り返しながら旅立っていったとすれば、これほど
悲しいことがあるでしょうか。
みんな楽しい思い出をたくさん作りたいと願っている。でも、やっぱり
それは、一人きりではつくることはできない。なぜなら、人との温かい触れ合いにこそ、心に残る思い出があるからです。
あれから30年。どんどん物が豊かになると同時に、日本人のエゴは
ますます増長しているように感じます。ますます世間の冷たさが大きくなっているような気がします。健雄君に三つ目の言葉を教えた世間。母の腕にしがみついて泣いている子を救おうとしなかった世間。
そんな世間のなかで、ほんとうに幸せになれるでしょうか。
自分が幸せになりたいのなら、自分がいい思い出をつくりたいのなら、まずは、人を思いやる気持ちをもつこと。そんな温かい社会になれば、私たち弁護士の仕事も減るかもしれませんね。